マクドナルド -資本主義最果て店-

February 15, 2026

僕はマクドナルド 資本主義最果て店で街を行き交う人を見ながらハンバーガーを食べている。

物心ついたときから、ずっと好きだと思えるものが人生にそう何個もあるだろうか。
何気ないものでもそう思えるものが一つあるだけで人は幸せだと思う。

いささか子供じみている気もするが、マクドナルドが僕にとってそのような存在であることは事実で、疑いの余地はない。

物心ついたときから家にいたサモエドが心の親友になるように、僕にとってマクドナルドは気づいたら側にいて、遠からず近からず僕の人生に寄り添っている。
つまり、この感情に社会的な意味はなく、ただ自然なものとしてそこにある。

人生のどの瞬間を振り返ってもマクドナルドがいる。
これもまた事実だ。
僕は大切なことをすぐ忘れるが、いつ誰とどこのマックになんのために行ったかということは意外にも思い出せる。

僕の記憶が正しければ、コーラを初めて飲んだのも母がセットドリンクを一口分けてくれた時だったように思う。
その時の口の弾ける痛みというのを今でも鮮明に思い出せるような気がする。


ここで全く関係がないようで、とても関係がある、日本の首都、東京の街角の話をしよう。

東京の市場原理は地方とは比べ物にならないほど苛烈で残酷だ。

40年の歴史がある街角の個人店は、市場の競争によって簡単に姿を消す。
まさに今日も姿を消し続けている。

個人の店が40年も続くには理由がある。
それが愛されてきた背景にあるのは、味が美味しい、人がいい、土地に合っているなどのささやかな互助の繋がりだ。
老舗のこだわりとは、すなわちコミュニティのことであり一朝一夕になるものでは決してない。

だが日本の新自由主義が浮き彫りにしたのは、そんな小さなで暖かなコミュニティは、資本の前にいとも簡単に脅かされる、という残酷な結論だった。

全国にフランチャイズ店を持ち、膨大なデータと物流でコストを最適化したリーズナブルで美味しい店が、縦横無尽に展開され、東京の駅前は占拠された。

それらの店を求めた困窮する市民に罪はない。
と言いたいところだが、これは全員にとっての利益であり、全員にとっての罪であるとも言える。

その最適化レースにおいて、割りを食ったのは紛れもなく個人店だった。
この東京の市場原理で、老舗の個人飲食店が未だに生き残っているとしたら、それらはほぼ奇跡的要因によるものだ。

借地でなく賃貸費がかかっていないこと。再開発の手から逃れられていること。原価をいまだに抑えられる形態であること。一等地でないものの足は運びやすいバランスの良い立地に立脚していること。いずれにせよ、これらは能動的に選び得ない理由ばかりだ。

もはや利益を見込まず、最小限のコストで最小限のこだわりを維持することによって何とか運営を続けるという意思決定をしている店もある。
ただ、これはもはや昔ながらのやり方では太刀打ちができないことの裏付けに他ならない。

一方、この市場の波を乗りこなそうとしている店もある。
SNSや口コミのプラットフォームに回し、話題性を作る、インバウンドなどを絡めながら単価をあげるなど、この時代なりの工夫を巡らしている店舗だ。

だが、東京に住んでいる人なら体感としてわかると思うが、これらの方法をとった個人店には恐ろしいほど行列ができる。
それは施策としての成功を示しているが、街に根付いた安息の地としての店の有り様からはやはり大きく逸脱している。

そのような社会において、街角にふと心を落ち着けられる老舗を発見した時、ここが最後の砦かと、僕は束の間の安息を得る。

ただ本当に恐ろしいのはここからだ。
東京では恐ろしい速度で、チェーン店が潰れていく。

主要駅の駅前には、名も聞いたことがない居酒屋やファストフード店が乱立しては、半年も経たずに潰れることが珍しくない。
チェーンが一等地に計画なしに出店することなどない。
経営の上手い下手は置いておいても、この閉店速度は異常だ。
初期費用、光熱費、材料費、人件費等々あるが、問題になるのはほとんどが賃貸費だ。
常軌を逸したコストが求められていることは素人にも想像に難くない。

名の知れたチェーン店でさえ、少し立地を間違えるだけで、損益の天秤が一瞬で崩壊して、奈落に落ちていく。
そもそも渋谷や新宿に店舗を構えるチェーン店は、その店だけで黒字化することを鼻から諦めているケースすらある。
店舗の存在を広告とし、ブランドへの印象を優先したこの手法は、全体最適の最たる例でありつつ、故にそれは莫大な資本を回せている企業だけが成せる方法だ。

東京の街角は熱しやすく冷めやすい。
株式チャートの変動が、目の前で展開されているような敏感な反応。

その上そこには、それに関わる生身の人間の存在がちらつく。
東京という街の速度と残酷さに疲弊していく人の成り行きもまた、想像に難くない。


そんなことを考えながら僕はマクドナルドにいる。

視線を落とすと置いてあるスパチキのセット。
550円。

個人店のランチメニューが1300円になって、
ファミレスでさえ、会計が1000円を当たり前に超える時代に。

ハンバーガーと山のポテトとコカコーラが550円。

マクドナルドは帝国に他ならない。
資本主義というゲームを完璧に攻略した揺るぎのない存在。
はっきりいってありとあらゆる飲食チェーンと比べても面構えが違う。

僕は今なぜマクドナルドにいるのか。
それは資本主義の悪魔に追いかけ回されて安息の地を求めたからだった。

お腹が空いたが、金もない。
でも明確に美味いもの食べたい。
そして、少しでも馴染みのある場所に行きたい。

その解は僕の最寄りの駅にあった。
仮にここが潰れたって構わない。
隣の駅行けばいいだけだ。

街角は阿鼻叫喚が渦巻いている。
さっき眼下にできた海鮮居酒屋は5分で潰れた。
ああ、虚しい。
というか寂しい。

僕だって東京に愛着のある街くらいある。
その街に傀儡がやってきて、人が群がっては土地を荒らして消えていく。

そんな儚さや残酷さをマジマジと見せつけられて正気でいられるほど僕はタフじゃない。
50年の老舗ばかりか、30年の老舗さえ絶滅危惧種となった街角で、未だコミュニティの役割を果たす個人店のおやっさんは「利益などない」と言っていたが、彼が人格者であることで僕は何とか正気を保っている。

でもその店も一年後どうかわからない。

ああ、僕はただ安心したいだけだ。
この東京で安心が欲しい。

そして僕は安息の地を見つけたのだ。

マックはシェルターに他ならなかった。
この世がなくなる時まで、この場所は変わらずそこにあるという安心感がある。

こんな安心感はもう街にはないのだ。
ああ、ここが安息地だ。
何に追われていたかはもう忘れてしまったが、とにかくここは終末まで持ちそうだ。
ここがダメになった時、その時は世界は何もかもダメだ。

安息だ。
安息は素晴らしい。
誰が発明したのだ。こんな安くて美味しいものを。

ここではない店舗を、突然訪れても変わらぬ味が提供される。
何年経ってもだ。
素晴らしいことじゃないか。
これでいいんだ...。これで。

僕はついに安息を得たんだ。


その時、近くに座っていたクアトロバジーナのような、体躯の立派な金髪の壮年が僕に話しかけてきた。

「どうした君。食事をしながらそんな思い詰めた顔をして。だが、大方分かるよ。この窓から見える光景に不安を覚えているんだろう。」

僕は、そんな顔をしていたのか。でも言い当てあれたような心持ちがした僕はそれを認めた。

「では、仮にこう考えたらどうだろう。まず、この食事は毒だ。よく機能するように完璧に作られた毒だ。だが、それでいいじゃないか。つまりは食らって生きてやればいいんだ。その毒を。」

僕はそうして店を出た。
その店は、永い時間の後潰れた。