ある鬱々とした朝、何かの緊張の糸がプツンと切れたようにある考えが起こった。
今週末は熱海の海にタバコを吸う用のためだけに出かけようと。
私は普段タバコを吸わない。嫌いではないが好きでもないので進んでは買わない。
だが精神的に参ったときはその限りではない。
明治の文学を読んでいると誰も彼もタバコを吸うとは書かずに、のむと書いている。昔はみなそう言ったらしい。
その表現は、ジュウジュウとタバコを灰にする時間と、その間に起こる思案を大事にしているような気がしてならない。
タバコの位置付け、あるいは時間のあり方そのものが、現代のそれとは違うものであったのではないかという考えさえ起こる。
私はまさにそのように熱海にタバコをのみ行くのだった。
鈍行で1時間。今年最後の海水浴をしている観光客。湾曲した湾の先にニューアカオ。やたらと急で唐突にぐるりと回る坂々。気の抜けた商店街の風。ちぎれかけたストラップのチラシ。この街の純喫茶は名店が多いのに土日に休みを取りまくる。Googleマップの情報は当てにならない。 でもこれはきっと店のジィやバァが、ローカルのジィやバァに肩肘張らぬ慎ましい商売をしているなによりの証だろう。
私はサンビーチのちょうど真ん中程に位置した喫煙所の縁に腰掛け、ベージュのパッケージのタバコに火をつける。
うん、このために来た。
私にもっとお金があれば、あの曲がりくねった峠の脇道に赤いオープンカーをつけて、海を見下ろしながら同じことをしてもいいだろう。
私の妄想脳はいささか時代錯誤の上にチープで笑ってしまう。
でも今は突き詰めれば、そんな外装の話はどうでもよいのだ。
結果的に得られるものはどのみち同じような満足だろうから。
ビーチはそれなりに騒がしいが、ここは何故だか静かだ。 タバコの先が燃える音が聞こえる。
同じタバコを吸っていた先輩が、”生活のリズムを他人に悟られるような生き方をするな”と言っていたことをふいに思いだした。
当時は、なんかハードボイルドでかっちょよ、と思ってきたが、今はもっと深い意味があるような気がしてならない。
考えが巡り続ける。
まとまらない考えとともに、また一本、また一本と火をつける。
めぐり続ける思考に、身を預けるのがこんなに心地いいとは。 私は思考を追うつもりで、どこかで追われ続ける日々だったのだなとそこで気づく。
こんな日は、これまた特に好きでも嫌いでもない酒が飲みたくなる。
なんとなく行ったことのない店に入ってみる。
中は暗くて、広くて、静かで、手が届くところに本がたくさんあり、フランスでもドイツでもないどこかの国のラジオが流れている。
それに加え、店員が黙って遠いカウンターでなにか静かに作業をしている。
この張り詰めた静寂を嫌う人は少なくないが、私にとっては、ここはただの静寂ではない。
宇宙を支配する静寂とは違う。
ここには確かに営みがあるからだ。
私がこの店が好きになった。
また、日々に戻る。住むにはどうかという話も度々聞くが、私にとってはどうにも旅先という言葉で割り切りたくない街だ。
箱庭のような街。でもそこには生の海風が吹き、人が生きる。
最近意味のあることにしか意味を見出せないのは虚しいという気分だ。
人生は永いのか、短いのか時々よく分からなくなる。
でもいいのだ。どうしようもなくなったら、何も分からないまま、またここで時を過ごせばよいだけの話だ。
熱海の終夏