【短評】濱口竜介/悪は存在しない

May 04, 2024

濱口竜介監督の新作「悪は存在しない」は、石橋英子氏のライブパフォーマンス「GIFT」のために撮影された素材を、劇映画の形式に改めてまとめ直したという特異な経緯を持っている。1
それ故にこの映画は、演出用の素材の断片から構成される抽象度の高い作品であることが予見されるかもしれないが、実際はそうではない。
濱口監督自身「GIFT」制作時、映画制作と異なる前提に苦難しつつも、石橋氏と話し合いを進める中で、抽象的の高い映像はむしろ趣旨に反することが分かり、設定があり役者があり物語があるという形式の撮影を採用するに至ったそうだ。
つまり「悪は存在しない」は「GIFT」の段階から劇映画としての性質を持っていたのである2.
本作は「GIFT」に由来する自然を緩やかに写すショットと音楽の調和に加え、中盤から加速する会話劇がそれに筋を通すことで、一つの劇映画としても稀有な存在感を放っている。
また、この映画の脚本は特異な展開を持っているが、音楽との調和を図った結果そのように組み上がったという点で、非常に自然な仕上がりになったと監督は語っている。3

長野県、水挽町(みずびきちょう)。
自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。
代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。
しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。
コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

あらすじを読むと、少しドキッとするものがある。
この緊張感の正体は、主題の具体性にあるのではないだろうか。
そしてこれが"今この瞬間も日本で起こっていること"であるのが、観る側の当事者性にも訴えかけてくる。
日本に住む受け手にとって、この映画はおそらく誰が見ても、作中に存在するいずれかの立場に自分を投影せざるを得ないという予感が個人的にはしていた。

ただ一方で、濱口氏はリアリズムの指向が強くありつつも、常にそれをある種の軽やかさを持ってまとめ上げてきた作家でもある。
なぜそれを成しえてるかという所が私には全く魔法のように感じるのだが、あえて言語化するなら、その由来は濱口監督の社会に対する誠実な態度と鋭い観察能力にあると思う。
状況を先入観なく見ることができ、そこに一滴の作家性を落とすることができる監督は、無駄な重みを一切捨てて、見る人の心に真っ直ぐに主題を届け去っていく。


注)以下、映画本編の内容に具体的に触れています。また、一部筆者独自の解釈を含みます。解釈の余地が広い作品ですので、一視点としてお楽しみください。

作中、企業の担当者から地元住民へグランピング施設建設計画についての説明会が行われるが、不十分な排水設備や、現実的ではない運営体制、資金繰りが優先された建築スケジュールが露呈し、双方の溝がむしろ深まるというシーンがある。
のどかな山中にグランピング施設を建設する、というワードから予想できる危惧が全て形になっていくシーンとも言える。

そのそもの立て付けの歪みに加え、所作や言葉尻からさりげ滲み出るビジネス至上主義が、その山で生きる住民達の眼前でちらついたとき、この上ない異物感を放つ。
ただ一方でそれは、映画の冒頭から一貫して映し出される、美しい自然の中で言葉少なに暮らす住人たちの営みの尊さ、という刷り込みによるものであると捉えることもでき、決して片側に振り切って悪を定義できない複雑さが垣間見える。
むしろ、住人の排他的な態度と団結したときの攻撃力という観点に着目すると、この会合自体が双方の視点の交差にすぎないという結論が更に際立つようだ。
徹底的な写実性。濱口監督の観察眼が光る。

だがそのような写実的が故にグロテスクな構造の中で、主人公の巧の言葉は際立って響く。

「僕は3代目だ。」
「ここは、戦後農地改革のために与えられた土地で、僕を含めここにいる全員がよそ者なんだ。」
「自然も壊してきた。」
「そう意味では、あんた達も俺らも変わらない。」
「大事なのはバランスだ。」
「話し合って進めていけるなら、お互いが納得できる道もあるかもしれない。」
「ただ、今日の会合は全く意味がないことが分かった。社長とコンサルとここに連れてきて話さないと何も始まらない。」
巧の台詞(意訳あり)

水挽で娘の花と山暮らしをしている主人公の巧は、非常に寡黙であるが、山を愛し、娘を愛し、小さなコミュニティを守っている。
故に彼は他の住人と同じく、外の人間に対し非常に排他的な側面があるが、自分も既に悪かもしれないという点にこの会合で唯一触れる存在だ。

「ほとんどのことは巧が言ったことに尽きるのですが...」
「僕ら山の上の水でやった事というのは必ず、下の町に流れるんです。」 「上でやったことというのは、僕らがまあこんなもんでいいだろうと思っても、下ではとてつもなく大きなことになる。」 「これはもう環境保護とかそういうレベルの話じゃないんです。ごく当然のことなんです」
水挽町区長の台詞 (意訳あり)

後日、説明会担当者の高橋と黛は、会社に会合の結果を持ち帰るが、コンサルと社長は、ビジネス的取捨選択は必至であると繰り返し、あの現場にあった意見とその切迫性というのはほとんど霧に消える。  
この現象に対して資本主義の功罪という観点から批判をかますことはいくらでもできるが、コンサルと社長の業と思惑は明らかなので、ここではこれ以上掘り下げない。  

その後社長の命で、2人は水挽町に直行する。
この車内での長回しの会話劇は、2人の人生と本音が明らかになる重要なシーンだ。
説明会における、話の分からない空虚なビジネスマンというレッテルは絶妙に剥がされ、ここでも問題は多面的であることが明らかになる。

のち再び水挽に戻ってきた2人は、巧にアドバイザーとしてグランピング施設の運営に関わってくれないかと打診するが、巧はNOともYESとも言わない。 
ただ2人に山のことを知るようにと対話をしたり、作業の手伝いをさせたりする中で、淡々と日が暮れていく。     

「あの施設の予定地は鹿の通り道なんだ。鹿は2mの柵を軽々超える。3mの柵が必要だ。でもそんな施設に人は来たがるのかな。」
「鹿が人を襲うんですか?」   「いや、それはない。鹿は臆病で警戒心が強い。」
「ならいいんじゃないでしょうか。都会から来る人にとっては、鹿と触れ合える機会は貴重だと思います。」
「鹿は触らせてくれない。」
「なら。」
「でも半矢なら人を襲うかもしれない。」
「半矢?」
「手負いってことだ。逃げる体力がなければ人を襲うかもしれない。」
巧と黛の会話(意訳あり)

この映画において、山奥で巧と2人で暮らす花は、子供であるという無垢さに加えても、どこか透明感の際立つ存在である。
いつも静かに周りを見ていて、巧がうっかり学童への迎えを忘れていると、ふらっと歩いて山道を帰っていく。
山と大人をいつも観察していて、しれっとその所作や生き方を取り入れている。


髙橋と黛と行動を共にするうちに、巧は今日も花の迎えを忘れていることに気づく。

いつも通り花がよく通る獣道を辿るが、この日だけはなぜか見つからない。
行方不明の広報が鳴り、町中総出で捜索するが、花は一晩中見つからなかった。

明朝、巧と高橋は草原の真ん中で、手負いの鹿の親子の前に静かに佇む花を見つけ、物語は結末へと向かう。


「悪は存在しない」それはすなわち「悪はどこにでも存在する」ということと鏡合わせである。
「正しさは存在しない」と言い換えてもいいかもしれない。
この物語の中核には常に自然の存在があるため、作品に通底する空気感は神秘的なものだが、この主題はこの社会のどこにでも存在している。
物語の中で唯一中立に近しいと言える巧にさえ、悪意やエゴを感じる瞬間が描かれる。それが映画のラストシーンだ。

全てが悪意と切り離せない世界のなかで生きてきくために、僕らには何が必要なのか。
やはり答えはない。それがこの映画が物語ることだ。
ただ私はこの物語から、唯一信ずべき信念を改めて掬い上げたように思う。
「大事なのはバランスだ。」