January 08, 2024

ここに一つの肉と骨の塊がある。 なんとこの肉と骨の塊は機敏に動き、己で意思決定をして機能している。


今自分が立っているこの地面が、大地という有限の地平であることすら知らない猿の時代から
人類はその手によって新たな生命すら生み出せる地平に到達しつつある。

加えて現代の科学は、このヒトという生き物がいかに複雑で高度な構成で機能しているかを明らかにした。

我々の身体の中には、シンケイケイというものがあり、己の意思に関係なく、 体内ポンプが機能させ、外敵が侵入したら勝手に排除までしている。 それに加えてヒトには、自由意志という手に余る機能まで備わっている。

とはいえ、ここで私が口にしたいのは生命讃歌でない。 私が今一度、振り返りたいのは、この超緻密マシンが今日も機能しているのは、奇跡にほかならないという事実だ。

少し誤解を招いたかもしれない。 私はスピリチュアリティを語りたい訳でもない。 ここで私が語りたいのは、この超精密な構造体が、明日、何の前触れもなく機能を停止しても、なんら不思議はないというその事実についてだ。

統計的な確率は間違いなく低い。 多くの人はそんなものと無関係に、平均寿命まで何なく生きる。

だが、私は統計的に低いからどうこうという話をしたい訳でもない。

それが起こった時の悲劇と後悔は、 「稀なことが起こった」 と言って割り切るにはあまりに釣り合わない、 あまりに大きな悲劇であるということだ。

そうして目覚めなかった人は、 今日のおやすみが、もしくはただの今日の朝という時間が、 金輪際最後になるなど、夢にも思わなかっただろう。

起こってしまったことに、確率の観点を持ち込むのは無意味だ。

それは"既に起こった"のである。


今日を生きろ。 今日が最後だと思って生きるではない。 多分今日が最後なのだ。

それだと心が疲れるだろうか。 それだと身体が持たないだろうか。

でも、ある朝貴方が目覚めなかった時、 貴方は、そのちゃちな言い訳のために、もう二度と引き返せない門を既にくぐっていたことを、大方後悔するだろう。

人生に意味や意義を求めていない、と割り切れる肝の据わった奴には無縁の話と言えるかもしれない。

だがその気概のある奴は自分の足で堂々と門を潜るだろう。 その人間は自分の人生を全うしたのである。

始まったものは、必ず例外なく。100%終わりの日がある。

あなたの終わりの日が花に満ちていることを、私はごく個人的に願ってやまない。


追記;また、私の身勝手な書き物のために、悲しい記憶の蓋に触れたこと、またそれを題材として扱ったことを謝罪します。 私はただ、そのような人の魂の横で、人生を渇望しない人を見て、どうしてもやるせない気持ちになったのです。