SNSは言った.「ようこそ!ジユウな世界へ!」と.

January 17, 2024

SNSフロンティアは開拓し尽くされた。

今やこの土地は、ゴールドラッシュによって移住してきた夢見る開拓者たちと、それに従って結果的に築き出された民主主義のピラミッドが燦然と佇んでいる。

今思うと、ここに金など本当にあったのか。 先住民たちを追い出し得たこの土地に、やはりどこか所在なさと虚しさを感じるが…。 もはや時代は後には戻れない。

新たな砂金が出たという噂も聞くが、今やフロンティアの面影もない殺伐とした景色の中で、同じ繰り返しにすっかり疲労した人々は、国に帰りたいなどと独りでにつぶやく。 いや、ただ独りでに、"つぶやく”ことすら、今や意味を変えてしまった。


前置きはさておき。

私もSNSと共に思春期を過ごした人間だ。 "自由な世界"という売り文句を間に受けて、実際多くの恩恵を受けてきた。 双方向のコミュニケーションが自由にできることは、実際革命だった。 発信も受信もそれ以前の時代とは意味を変えた。

そして必然として、SNSはグローバルな議論の場と成立し、皆が意見を持ち寄り、よりダイバーシティに満ちた議論が存在しうるという期待も当然そこにはあった。

そして今、それは完全なる幻想だったという一つの帰着を感じている。 SNSにはグローバルな議論など存在し得ない。

議論には一定の目的が必要である。意見は真逆でも、あるトピックについて話すという共通の目的があるから、衝突は起きても、攻撃や中傷は起きにくい。 また、話の流れというものがあり、議題は順にスライドしていき、一本の流れになる。

ただ議論の参加人数が増えるについて、発言者や賛同者にとっては派閥の対立だと思っているものが、どんどんとグラデーション化していき、矛先が湾曲し、それもまた曲解され、もはやどこを目指している議論かわからない。 それがSNSにおける現状だ。

発言者や賛同者の脳内には議論の構造があり、共通敵のようなものがあるように錯覚しているが、誰もが共通化できる議論の構造というのは、改めて考えるとSNSのどこにも存在していない。 そして生産的な議論は行われないまま、参加人数だけが更に増えていって、詳細な思想が欠落し、ぼんやりとした感情論だけが共鳴反応を起こし、最終的に中傷が多発する。

リポストは同時多発的に起こり、流れも文脈も正確には存在せず、すなわちこの議論には結論も収束もない。

生産的な議論とはどう行われていたものかと思い起こすと、集まって話すか、一冊の本にするか、新聞にするかしていた。 これらは、適度に発言者が限定的で、かつ議論に流れがあるので一般化できた。

インターネットおよびSNSは、議論への参加権を民主化したと語られがちだが、議論として成立していない口々の叫びによって、議論の良し悪しすらその雑踏に埋もれた。

ごく簡単にいえば、「参加人数の肥大化」と「議論の流れの消失」により、このプラットフォームは鼻から、議論をするツールとして破綻していたことが浮き彫りになったように思うのである。


SNSはいった。「ようこそ!ジユウな世界へ!」と。

荒廃した地平に落ちた旧式の端末が壊れたように繰り返すコマーシャルを見つめながら、私は一概に、これら結果を責められないでいる。

我先にと、この土地に降り立った人の中には、自由な地平に純粋な希望をいだいていた人間もいたはずだからだ。 よりより未来を選択していこうという気概と誠実さも持ち合わせていたかもしれない。

だが、また違う思想を持った、ごく一部の開拓者によって、この土地は瞬く間に制圧された。 その人々は、強力で実行力のある采配を持ち、金銭のやりとりが上手かった。だが私は先住民族にビー玉を売りつけるやり口というのが今も気に食わないという話だ。

一つの国を建国ししばらくの時間が経った今、彼らは「走り始めた構造は壊せない」と呪文のように繰り返すのが、それもまた間違っているだろうと私は思う。